2013/08/11
12:44:41
アンソニー・J・サティラロ著(上野圭一訳)の『がん ある「完全治癒」の記録』という本を読みました。この本に出会った経緯は、ある本を読んでいた時にこの本の事に言及していて、気になって購入したのです。
この本は著者であるフィラデルフィア・メソジスト病院院長であるサティラロ氏が1978年に癌の宣告を受けてから治癒に至るまでの葛藤と治癒の経緯を書いたものです。
著者は西洋医学の医者でもあるため、「我々の現代科学として確立されている方法ではないため、それが実際に証明されるまでは、どのような療法であれ、西洋医学に両方に替わるものとは承認できない」とも注釈を入れています。
1987年6月サティラロは担当医から癌の宣告を受けたところから話は始まります。この時に著者は47歳、診断によれば第4期(ステージD)の前立腺癌で、頭蓋骨・肩甲骨・脊髄骨・助骨など他の部分への転移がみられたのです。
担当医からは「数」年は生きられると言われたが、医者でもある本人がこの後の行末を一番良く知ってもいるわけです。既にかなりの背筋痛にも悩まされ、鎮痛剤を大量に飲むという日々でもありました。
前立腺癌の検査の経緯の中で全身への転移も確認されたのです。その後、左右の睾丸を摘出し、エストロゲンを服用する療法を実施しました。その方法でも5年生存率は15〜25%ということのようです。それでもそれが最善の策だという診断結果だったのです。
睾丸を摘出し、エストロゲンを服用するようになれば、癌は消退し痛みも緩解するだろうと期待していたようですが、1ヶ月が過ぎても、2ヶ月が過ぎても痛みは一向に衰えなく、癌が成長を停止したという徴候もみられなかったようです。
実はサティラロの父親も癌に侵され、8月に亡くなったのです。それは著者が癌の宣告をされてから、2カ月余りのことです。父親の葬儀の帰りに、車を運転していると二人のヒッチハイカーが目に入ったのです。
いつもの彼らなら、アクセルを踏んで、若者が小さくなるのを見ることになるはずだったのでしょうけれど、どういったわけか、この日はスピードを落とし、ハイウェイの端に寄せている自分に気がついたのです。
話はこの二人の若者に出会うことでスタートするといっても過言ではないと思います。(続く)
この本は著者であるフィラデルフィア・メソジスト病院院長であるサティラロ氏が1978年に癌の宣告を受けてから治癒に至るまでの葛藤と治癒の経緯を書いたものです。
著者は西洋医学の医者でもあるため、「我々の現代科学として確立されている方法ではないため、それが実際に証明されるまでは、どのような療法であれ、西洋医学に両方に替わるものとは承認できない」とも注釈を入れています。
1987年6月サティラロは担当医から癌の宣告を受けたところから話は始まります。この時に著者は47歳、診断によれば第4期(ステージD)の前立腺癌で、頭蓋骨・肩甲骨・脊髄骨・助骨など他の部分への転移がみられたのです。
担当医からは「数」年は生きられると言われたが、医者でもある本人がこの後の行末を一番良く知ってもいるわけです。既にかなりの背筋痛にも悩まされ、鎮痛剤を大量に飲むという日々でもありました。
前立腺癌の検査の経緯の中で全身への転移も確認されたのです。その後、左右の睾丸を摘出し、エストロゲンを服用する療法を実施しました。その方法でも5年生存率は15〜25%ということのようです。それでもそれが最善の策だという診断結果だったのです。
睾丸を摘出し、エストロゲンを服用するようになれば、癌は消退し痛みも緩解するだろうと期待していたようですが、1ヶ月が過ぎても、2ヶ月が過ぎても痛みは一向に衰えなく、癌が成長を停止したという徴候もみられなかったようです。
実はサティラロの父親も癌に侵され、8月に亡くなったのです。それは著者が癌の宣告をされてから、2カ月余りのことです。父親の葬儀の帰りに、車を運転していると二人のヒッチハイカーが目に入ったのです。
いつもの彼らなら、アクセルを踏んで、若者が小さくなるのを見ることになるはずだったのでしょうけれど、どういったわけか、この日はスピードを落とし、ハイウェイの端に寄せている自分に気がついたのです。
話はこの二人の若者に出会うことでスタートするといっても過言ではないと思います。(続く)
スポンサーサイト